2018年1月29日月曜日

本当の作品



「汝、河豚の白子を食べずして其の本物を語ること無かれ。もとより鱈の白子を知るのみで決して河豚の白子を語ることなかれ」。

先日、たまたま店でながいこと取り扱わせていただいている「つくしペンケース」のことについてちょいと調べようと思って検索したらば、驚くことにこのペンケースのまがい物、もしくはそんな風に思えるようななにものか、が結構世にあることを知った。いやー、こういうことは今の世の中よくあるよくあると聞いてはいたが、まさかここにもあるとは思わなんだ。周囲のひとと話してみると、いや、もう、そんなことを言い出したらこの世の半分以上はそんなものばかりだ、だとか、洋服の世界なんてもっともっとひどいものだ、とか、まぁとにかくこの世はニセモノだらけの世の中らしい。まぁそうだろうなぁ。そうなるだろうなぁ。

今の時代、たったのゼロから何かを産み出すものの常として、パクられるリスクや可能性は常に考えておかなければならぬこと。もちろん何事も模倣から始まるのは僕とて分かっている。こんなしがない僕の文章だって、背後に尊敬してやまない誰かの影があることは僕がいちばん分かっている。が、だからこそ思うのだけど、どうせマネをするのならば、しっかりと本物をリスペクトしたうえで、本気でサンプリングしオマージュし自らのなかで昇華し、結果的に自分のなかで本物を超えるくらいのものを産み出す気概が無いといけないはず。というのが共通認識ではないのか。かつてビートルズがブラックミュージックをカヴァーしたように。例えがズルいか。まぁあれですよ、フェイクはフェイクの面白さっつうのも知ってのうえですけどね。カッコいいニセモノやフェイクだってこの世にはありましょう。高円寺で30年以上続く、ビートルズのオヤジコピーバンドにおける、あまりにソウルフルなシャウトのように。例えがアレか。でもとにかくそれだって本物に対する心からのリスペクト無くしてはあり得ない。そう、まがい物だといいたくなるヤツは得てして心だとか魂が感じられない姑息感がつきものだ。一滴でも水割りを薄くして金を毟ろうとする場末なスナックのママのような。うっすらとその裏に透けて見える小金印。

だから何より僕らは、本当の作品とまがい物を見抜く眼をせめて持ちたいものだと強く想う。それを見抜く触覚を共に磨きたいものだと切に願う。それは売り手しかり。その眼と全感覚で本当の作品を見抜いてからこその本物の売り手であって、まがい物に惑わされては、それを売る側とてきっとまがい物になってしまうわけで。そしていちばん悲しいのは、それを知ってか知らずかお金を出して買ってしまうひとがこの世にまた存在してしまうという事実。でもだってそれしか知らなかったら誰だってそうなるわな。だから場末スナックママの姑息感は恐い。なによりそれは本物を知らないひとが、本物の素晴らしさを知らないまんま、本物のようなものについて、どこかで知ったような顔で語ってしまうことに繋がってしまったり。それがいちばん悲しいのです。

それぐらい全体におけるモノを見るレベルが下がってしまう話はないし、であれば、うちのような店がここに在る意味、そのものが消え去ってしまう気がする。僕はそれだけを、つまりは自分が信じる本当の作品の素晴しさとか感動とか悦びをほかの誰かと分かち合うこと、を願ってこの店をやっている気がする。そしてそんな自分に少なからずお客さまが付いてきてくれることをこころから悦んでいるし、なんだか安心している面もある。でもだからこそまがい物についてはまったく他人ごとではない。こう見えてもいちおう使命感のようなものを僕も持っているのです(たぶん)。

この話はこころある創り手、というか、うちが取り扱うすべての創り手の方なら分かってくれるはずだろう。本当の作品を産み出す作家であるところの創り手こそは、日々何かを新しく更新して行かねばならない宿命であるはずで、だから本物はツラくて厳しい。自分のうしろにまがい物が並んで追って来ることを覚悟しながら、日々空を掴んでは新たな作品を産み出さねばならぬ。であるから、本物の「つくしペンケース」は美しく力強い。例えそれが文具であろうとチョコレイトであろうと器であろうとアクセサリーであろうと調味料であろうと、うちに置いてある以上、それらはすべて「本当の作品」だと言い切りたい。そして自分はこの店において、我が文章において、それを全力でフォローしてゆくであろう、と。






2018年1月24日水曜日

とある光




「・・・レコードは置いてありますか?」

彼女はそうっとお店に入ってきて、落ち着かない感じでお店のなかをうろうろして、何回か僕に話しかけようとして諦めて、そしてようやく迷いながら冒頭のことばを僕に告げた。インスタグラムで僕がよくレコードについてあげているのをみかけて(ストーリーズかな)、もしかしたらお店でレコードを販売されているのでは、と思って店に来てくれたのだそうだ。

置きたい置きたいと思いながらもなかなか手が回らないのだ、という旨を僕は彼女にとつとつと告げる。本当なのだ。置きたいレコードは売りたいレコードはたくさんあるのだけど、忙しいし、やるとなればきちんとやりたいし、なかなか踏み切れない。

せっかく来てくれたのにすまないな、と思いながら、コーヒーを淹れて、いま販売中のショコルのチョコレイトをいくつかコーヒーと共にお出しする。聞いてみると彼女はなんと高校一年なのだそうだ。大学生くらいかと思っていた。自分がもはや高校生や大学生の女の子の見分けも付かなくなっているのだろうか、と少しがっくりしてしまう。そりゃまぁそうかもしれない。だってどちらの立場の女の子ともそうそう話す機会がないんだものな。それにしても、な。

彼女は最近、ふらりと入ったとあるレコード屋さんからレコードプレーヤーをもらったらしい。そのレコード屋さんは僕も知っている。たまに行く店だ。分からないではないな、と思う。そりゃ高校一年の女の子が場違いとも思えるようなマニアックともいえるレコード屋にふらりと入って来たらば、何かをすべきだと自分だって思うだろう。だから僕も散々迷って、最後にとあるレコードを彼女に貸してあげることにした。コーネリアスの『ファンタズマ』。散々考えたのだけれど、僕が持っているレコードのなかでいちばん高校一年生的・・・とにかくいろんな好きなものを詰め込むパッションと過去と未来と現在とを空想で繋ぐファンタジアとおもちゃ箱をひっくり返したようなワクワク感と・・・かもしれなかった。分からないけど。でもまぁとにかくうちだってたまには貸しレコード屋になるのだって悪くはないだろう。そしてよくよく話を聞いてみると彼女は『catejina』の洋服のファンで、元々はそれでうちの店を知ってくれたらしい。恐るべしカテジナ。

もちろん彼女は高校一年生らしく、いろんなことに迷っているようだ。将来のことだとか目の前のテストのことだとか。特に本当に将来やりたいことと、自分のいまの選択が食い違ってしまっているらしい。まぁそんなの当たり前だよな。そんなこといったら自分なんて・・・と、そうして僕は彼女の話を聞きながら、一生懸命、自分の高校一年の時のことを想いだそうとする。でもどうしても、だめだ。いくら考えても当時好きだった女の子のことくらいしか想い出せない。彼女の話だと、やはり周囲はもう高校生だって早くに将来を決めてしまおうとする子がとても多いらしい。そのなかでどうやら彼女は浮いてしまっているみたいだ。まぁそうだろうなぁ。僕なんかの頃よりも今の時代の方がその流れは強いはずだ。こんなにも暗い時代だもの。

「・・・まぁ20代をすべて棒に振るくらいでいいんじゃないの。本当にやりたいことなんて30代からでいいと思うけれど。というか、周りがあまりに早くに将来を決めて行く中で、どれくらい頑張って棒に振れるかだと思うんだけどな」。この子の親からナイフを送られるくらいのとても無責任な言葉だと自分でも分かっていたけれど、そんなことを僕は彼女にぼそぼそと言ったと思う。お前はそんなでたらめな言葉を自分の子どもにも同じように言えるのか?となかば自答しながら。言えるのかな。少なくとも伝えたいとは思ってはいるが。

でも。どうしてそんな言葉があのとき出来てしまったのかと後から考えると。僕はいまでも忘れることができないのだ。あの大人たちのことを。僕の人生に対して、ひとの人生に対して、甘いだとか舐めているだとか勝手な言葉を言い放ち、汚らしくひとの人生を踏みにじろうとしたあの大人たちの顔を。そしていま、いかにもそんなことを言い放ちがちな分かったような顔をしている嫌いな大人たちのことを。これから自分がどう生きようとも、少なくともあんな奴らにだけは絶対なるまいと誓ったあの人間たちのことを。だから今の僕から言わせると、若い子にはそんな言葉くらいしかかけられないのだ。そんな風に信じ生き続けると、もしかするときっとこんな大人になる(なってしまう)。大人かどうかは果たして分からないけれど。すくなくとも信じれば、こうやって生き延びることはできる。こんな風には決してなりたくはないよ、と思えばあいつらの言うことを聞けばいいし、それが嫌なら違う道を選べばいい。でもとにかく大事なのは、とにかく見失ってほしくはないのは、どこかに違う道もあるということだ。道は決してひとつじゃない。先は永いし、ほんとうは先のことなんて誰にも分からないのだから。

「テストで赤点をとらなければ、また来ます」と笑いながら彼女は出て行った。・・・ああ、もしかしたら、こっちのレコードの方を貸したが良かったかもな、と、今これを聴きながら思ったりする。小沢健二の『ある光』。でもこの線路を降りるのは、きっときみにはまだまだ早過ぎると思うんだよな。うん、きっとそうだと思う。
















2018年1月20日土曜日

ワン・モア・タイム

というわけで黒塗りがどうとかこうとか言ってる場合な2018年初頭ではないはずで、なぜかといえば今年最初の展示会がもう2週間後には開始されるからであるはずで。



昨年も行われた、当店が選んだ作家に自由にカップを創っていただくというこの展示会。そしてバレンタインという悪魔とも思える日にちなんで、また今年もいつものように東京は深沢の『xocol』さんにさまざまなるチョコレイトをお願いする。今回はひとまずやはりこの『xocol』さんのご紹介をしていこうと思います。

というか、毎年やっているのでね。もうご存知のひともいるはずだもんな。でもまだ初めてのひともいるだろうし。ひとまずは合い言葉のように繰り返されるのが、「ひとりの女性が自らカカオ豆を厳選輸入して自家焙煎、さらに石臼で挽いて乳化剤だとかおかしなものをまったく使わないオリジナリーなチョコレイト」ということになる。いろいろ種類があるなかで限定の生チョコを現在店頭にて試食販売、1月いっぱいまで注文を受付け、ちょうどカップ展まっただなかの2月10日あたりに現物が届く、というような流れなんですね。






今年の新作である『美しい石』、つまりはチョコレイトをコーティングしたアーモンドをさらに抹茶やほうじ茶で包んだ美しい石であったり、さらにすごく興味深いのが『カカオソルト』!もうね、もはやね、『xocol』の君島さん(というのがひとりの女性であるんだけども)はチョコレイトを創るひとだけではなく、これはたぶんもう『カカオの伝道師』みたいなことになっているようなのだな、たぶん。であるからして去年はカカオ料理のワークショップなんぞを開いたこともあるらしい。カカオのカオマンガイ!とかね。たしかメキシコにその源泉となる料理があるのだとか。



まぁそういう流れからのカカオソルト。「CACAO HOLIC SALT」ってやっぱりネーミングもヤバい。いつもヤバい。まだまだ絶賛試作検討中であるところのカカオソルトですが、現段階のものを試作で送ってもらいまして。もうすでに数名からご予約も受けているわけでありますが、君島さんご本人にお聞きした所、どうやら基本的にカカオというのはゴマのような立ち位置で考えてもらえるとよいのだとか。なるほどなぁと僕も早速家に帰っていくつかの料理にトライしてみる。

お豆腐に良さげなオリーブオイル、カカオソルト、そして良さげなお塩を少々。ふむ。これはこれでサラダ感覚で美味しくてワインプリーズ。お客さんの時とか出すとこちとらのランク上がりそう。というか、この辺の感覚がわからないひと、「うげっ、豆腐にオイルぅ〜」なんてひとはここらで読むのを辞めたがよろしいからね。



豚肉のローストにゴリゴリ振ってみる。もうこれはなんというか当たり前に美味しい。獣とカカオ風味のマッチングはどこかしら未知の領域で僕らをネクストドアへ導いてくれる。「別にカカオの風味いらなくね?」とかいうきみは、もう新しい音楽なんて聴かなくてよろしい。自分の棚にあるものだけ見て信じて生きていきなさい。まだ若いのに。




そして今のところ一番気にいったのがこれ。朝一番に作ったエセクロックムッシュにガリガリとカカオソルトを振りかけたもの。これは本当に美味しい。朝からほんのり薫るカカオの風味は僕らをちょっとこれまでとは違った方法で目覚めさせてくれる。本当です。チョコを食べるでも無く、カカオの風味が我が感覚をキックするのはとても刺激的であって、コーヒーとはまた違う独特な感じがある。というか、なんかシャレてるよね。こんなものをセックス明けの朝食にさらりと出す若い男がいたらば、そいつはもうそれだけでプリンス・バスターだ。ロックでステディで甘くて粋な種馬である彼の素質をそのまま引き継いだ若き男の将来はもはやその場で約束されたようなもの。そしてエロティックでセンシャルなカカオの薫りは彼や彼女をまた再び必ずや乱れたベッドへと導くであろう。朝からのワン・モア・タイムくらい贅沢で満ち足りたふたりの時間は無いからな。おい、そこのわけーの。そんな贅沢な時間はいまのうちなんだかんな。覚悟しとけよ。・・・誰も読んでないと思ってもはや好き勝手適当に書いているようだが、これは三分の二くらい本気だ。




ということで、ぜひあなたさまにあっては「カカオソルト」を含め、『xocol』のチョコレイトをお試しいただきたいのです。

2018年1月16日火曜日

絶望と未来と



先日、子どもの誕生日を祝うためにお気に入りのお店に家族で行って食事をした。いつものように満足して、最期にデザートを頼もうとメニューを見たら、そのなかに「ヴィーガン」のためのメニューが記してあった。すべての素材にオーガニックにこだわるこの店にあって「そうか、さらにヴィーガンなのか」となんとなく思っていたらば、隣のテーブルにいた団体客のひとりから「・・・じつはわたし、ヴィーガンなんだけどね」という会話がたまたまのように聞こえて来た。別にいまどきヴィーガンのメニューが在るお店なんて珍しくはない。けれどもなんというかそのとき、最近ずうっと考え感じていた大きな物事がようやくひとつに繋がった気がした。

現在の世において、たまたまマイノリティとされるひとびとへの配慮や気配り、少なくとも自分のなかにそんなひとびとのためへの理解という席を空けておくこと。それこそこれから必ず必要となってくる価値観であるだろうと思う。というか、もはや世界においては刻一刻とその価値観が主になっていっているように自分には思えて仕方が無い。そのことは前回に書いた黒塗りでひとを笑わせることや女性を蹴って笑いを取ることと無関係ではないはずで、良くも悪くもガラパゴス化したこの国ではそのことがどうにも見えにくいし分かりにくい。だがしかし世界はどうやったってその方向に向かっているように僕には思える。

最近ハリウッド映画でアジア人が決まってキャストされるのもそれと無関係ではないだろうし、もちろんそれはかの中国という国の現在の力を示すものではあるだろうけど、でもいずれにしろマイノリティであった存在が表面に浮かび上がってきているのは事実だろうと思う。ハリウッドのセクハラスキャンダルなんていうのもそのひとつの例と言っていいかもしれない。声なき声の主張、というか。ジェンダーの問題も同じく。男性でも女性でもない、これまでとは違う立ち位置のひとびとがそれぞれ声をあげる。いわばこれまではクラスの端っこでその存在を明かさなかった(明かせなかった)ひとたちがその権利と自由を求めて声をあげる。これまではそんな声を息がクサいおっさんの父性めいた力でただただねじ伏せていたのに、そこにきちんと理解をして席を与えて考えを分かち合う。そのこと自体、僕には至極当然の流れのように思える。

でも残念ながらなかなかその考えはシェアされることがないようだ。特にこの国においては。そして僕が想うに、世界とこの国に乖離があるのと同じように、都会と地方にも当然のようにその乖離があるように感じる。だからそんな地方を象徴するかのようなフェイスブックのタイムラインというやつを見ていて、たまにイスからずっこけ落ちるようなポストを見かけたりもする。でもそれもしょうがないのだろう。特に僕が痛感するのは、現在40過ぎの自分だけど、同じくらいの世代でもなかなかその考えをシェアできるひとはそう多くは無いような気がすること。そしてそれは逆に下の30代になればもっとナチュラルにシェアされることが多くなるだろうということ。というか、だから僕は30代とばかり呑んで遊んでもらっているのだろうし、事実そんな話をしても彼らは当然のように付いて来るだろう。少なくとも僕の周りの30代には少なからずシェアできている感覚がある。

そしてきっともっとその下の世代になれば、もしかしたらまたその数は増えるんじゃないかなと予測する。なぜかといえば、それはどちらかといえば理屈というよりも、もっと感覚的なものに違いないからだ。考えが合うか合わないか、ではない。感覚が分かるか分からないか、なのだ。だからこれまで笑えていたことが自然に笑えなくなるのは自然に当たり前のことじゃないかな、と思ったりするわけで。だからこそ自分はこの国がどうとかいっても、若いひとたちにこそ未来はあるし、そのことについては自分なりにそんなに絶望はしていない。でもということは、僕と同じ世代かそれより上の世代には少なからず絶望していることになると思う。どうも既得権というやつに捕われ過ぎている人間が多いように思えるし、こっち側からばかり見て、向こう側から見ることができない人間が多いように思えるから。もちろんそれが歳を取るということ、感覚と人間が固まってしまうということなのかもしれないし、そのことは常に自分で自問自答していることなのだけど。もうそれができないと分かったら、自分だって誰だってさっさと若いひとに席を譲るべきだ。たぶん。

そしてなんでどこぞの一介の店主である自分がこんな大それたことをここに記すかといえば、これからの世の中はそれがどんな店であれ創り手であれ、これまで書いてきたようなことに無自覚ではいられなくなるだろうと思うから。別にそのことに対して無自覚でもいいけれど、そのこと自体、店として創り手として、もはやとても重要なロスのように思えてしまうから。少なくとも自分は無自覚では居たく無いし居られない。だからこそもしかしたら冒頭に書いた僕が愛する店はヴィーガンメニューがあったというわけなのだろうし、きっと根底に通じるものがあるからこそ、僕はその店に通うのだろうと思う。別に大それた考えや主張はなくったって、ちょっとしたことでその指針を示すことはできる。もちろんこんな文章だってそのひとつといっていいと思う。言うまでもないことだけど、どんなひとがやっているかでその店は決まる。どんなひとが創っているかでその作品は決まる。これからはますますそのことが色濃くなってゆくはずだ。

・・・しっかし説教くさい辛気くさいこと書いちゃったなぁ。まぁしょうがないですね。子どもができると誰だってその先を見るもの、のようです。というわけで、そろそろ次の展示会である「カップ展」が始まります。














2018年1月14日日曜日

イマジン




残念ながら今年のブログのスタートは病気ネタから始まる。今年最初のブログなのだから、今年の目標だとか、昨年の総括だとか、大きく行きたいものだけどしょうがない。たぶんこれも40代における現実だし、そういうものを背負いながら店なんてのもやっていかなければならないのだし。

といって大した病気でもないのだが。いやでも、これはなってみなければツラさは絶対分からない。副鼻腔炎、つまりは蓄膿症というのか。年末までずっと展示会続きでなんとなく風邪気味ではあったのだけど、そして年始が来て酒を呑んでは無理をしていたら。気がつくと鼻水が濃くなってアメーバのようなものになり、顔中にそれが溜まっているような熱っぽい感覚になって、なにより最終的には眼球というか頭がずきずきするようになった。最初はなんとなくほおっておいたのだが、もうこれが絶えられなくなるくらいに痛い。特に眼球が。顔が痛むと神経に近いのか、ついでにどっかの歯も痛んで来る。こうなるともはやお腹が減っても食欲が湧かず、鼻腔による炎症だから味も香りも分からない。というか、とにかく顔面が痛いわ痛いわ。こんなツラさは産まれて初めてだった。なにかの外傷だったら外から見てもその痛さは分かるのだが、こういう痛さというのは本人しか分からないのもまたツラい。そしてこれまた仕事が完全にできないか、と言われると無理をすればできるといえばできるので・・・いや、マックスな痛みのときは無理だけど、でもとにかくこのラインのキツさはツラいですね。

ネットなんかで調べてみるとこの症状はじつはかなり多いらしい。基本は風邪をこじらせて成る場合が多いみたいだけど、アレルギーとかも原因になるみたいだ。でもまぁ蓄膿つったら案外昔から言われている症状だし、大抵初めて会うひとの鼻にかかった声で「なんかこのひと蓄膿っぽいな」とか思ってたし、ということはそんなひとたちの多くは、あるいは一部のひとは、昔からこんな苦しみを感じていたのだろうか。痛みも症状もひとそれぞれだから違うだろうけど。・・・でも僕は病気に唯一の良い所があるとしたら、それしかないと思ったりする。病気をしたものしか分からない共感みたいなもの。なんでもそうだけど、病気って自分がその身になってみないと本当に分からない。なってみて初めて分かる。べつに同じような症状のひとと話して共感を得たからと言って、その痛みが減るわけでもなんでもないのだけど、でもひとと痛みを分かち合って通じ合えた事で、なにかが芽生えたりする。これってもしかしてセラピー的ななにかなのかな。

こんな風に話を飛躍させたくなるのは、やっぱり今の世の中が「他人の気持ちになる」ということがいちばん難しいような気がするからかもしれない。ネットができてSNSが通じて、ひとりひとり無名の誰かが意見を言えるようになると聞いたとき、自分はなんとなく「他人の気持ちになりやすい」世の中を想定していたように思う。他人の気持ちを読んだり見たりすることで、ひとは他人の気持ちに近づけるのではないかと思っていたのだろう。でもそれはある意味正しくて、ある意味間違っていたといえるだろう。現段階では。なんだかいまの世の中くらいに分断とか分裂とか、こっちはこっち、あっちはあっち、を感じる時代って無いような気がするからだ。

例えばテレビで黒塗りをして笑わせたり、女の子を蹴って笑いを取ったり、なんかそういうのっていまの分断の時代だからこそ、のような気もする。でも分断していないもう片方の目でよおく見てみると、そのことがいかに貧相でいかに豊かじゃなくて、いかに地球規模である現在の時代からなんだか落っこちてしまっているのかが分かる気がする。そして世界のポップミュージックを、特に最前線のポップミュージックを少しでも追っかけているひとであれば、知らず知らずのうちにそんなもう片方の目とやらが、少なくともその感覚みたいなものが、自分のからだにくっ付いてしまっている気がする。だからこういうことがあるとなんだかむずむずする。僕なんかは例えばエレベーターのなかで黒人のひとと一緒になっている情景がなぜか自然と頭に浮かんでは消える。なんでもいい。想像出来ないよりはなんらかを想像出来た方が、想像しようとする方が、僕は何倍もいいと思う。イマジン・オール・ザ・ピープル。

そしてこういうことを言ったりすると「・・・昔は良かった。今の時代はウルサくなった」というひとが必ずいたりする。でも本当にそうなのかな? 誰かを傷つけることが少なくなることは、あらゆるひとにとってむしろ健全な方向じゃないのかな。少なくとも嫌な気持ちだったり傷ついたりすることが減る事は、誰にとってもむしろいいことなんじゃないか。だって諸君、どんな人生でも誰の人生でも、例えどんな肌の色で産まれたとしても、例え男性であれ女性であれどっちでもなくったって、みんなどう生きたって、誰もがそれなりに大変なんだから。嫌な事なんてひとつでも少ない方がいいと思うのだけれど。そうに決まっている気がするんだけど。こういう考え方はあまりにナイーヴ過ぎるのかな。自分も子どもができてから、ある程度はナイーヴに過ぎるかもしれない。

ああ、今年は妙なスタートになってしまった。でもずっと同じところにいるわけにもいかないからな。この病気からのスタートをなんらかの良き啓示だと自分は感じている。というわけで今年もよろしくお願いします。
















2017年12月13日水曜日

ダメな店とは

毎年恒例のごとく同じ展示会を繰り返しやっているお店について、「いつも同じことやって飽きないのかなぁ」とか「それでお客さん来るのかなぁ」とか、そんな失礼なことを思っていたような思っているような気がしないでもないが、でもそうしてうちも毎年のごとくこの『玉木新雌』展示会をやらせてもらっている。



でもこれだけは言っておきたいのだが、同じ展示会を繰り返しやっているからといって、それはお店や創り手が同じ場所にいるかといえば、それがそうではないのだ。優れた創り手は、優れた創り手であるからこそ、彼ら彼女らはつねに蠢いている。蠢きを止めたら彼らは創り手では無くなる。すくなくとも僕はそう思う。すくなくとも蠢いていない創り手はうちの店にはいない。







特にこの『玉木新雌』というブランドにおいてその蠢きは顕著だ。兵庫のファクトリーに伺うたんびに新たな蠢きに驚かされ、はっとする。特に今回はこの新作シャツ『ケスケス』に一目でロックオンした僕はすぐさま自ら試着して、すぐさま自分用に購入し、すぐさまその後ろに待ち並ぶ数人の喜ばしきお客さまの顔が浮かんでは仕入れ、そして実際に喜んでもらえては売れて、追加でまた注文した。といってうちの規模なのでたいした数ではないのだけれど、でもそれはたかが数の問題では決して無い。僕が創り手からなにかを受けてはそれが胸とこころを穿ち、それをお客様に僕なりのやり方で伝え、そしてそれが嬉しいことにきちんと伝わり、代金が支払われ作品がお客様の元に旅立つ。そしてきっと明日からまた新しい生活が始まる。・・・言って見ればそれが僕の仕事のすべて。でもそれはまったく簡単なことじゃない。見渡してもどうやらそれが本当の意味できちんとできているお店だって、そうそうは在るものじゃない。名の在るものをただただ売って喜んでも仕方ない。少なくともそれは自分の仕事ではないんだ。・・・といつも自分に言い聞かせる。











とまた果たして誰に向かって書いているのかよく分からぬ文になっているが、そしてもちろんこれは自分に向けて書かれているのだけど、それにしても今回のDMは素晴しい。カメラマンえとうくんの本領発揮である(ちなみに同日行われた『catejina』のルックもヤバかった)。撮影が展示会初日の数日前に行われたという、もはや完全にスケジュール失敗なダメな店の典型であるのだが、ダメな店はダメな店なりの意地と希望があり、僕らはそれに向かって今日も来年も突き進むのだろう。といってもダメな店の定義なんてものは誰それでそれぞれであるはずで、僕にとって本当の意味でダメな店と言うのはDMが遅い店なのでは無くって、なによりDMがダサい店に他ならない。ダサいと言うことは、つまりはそこに己の想いが籠ってないということ。それに尽きる。ロックバンドとDMは格好がすべて。DMはその店の顔であり、その街を映し出す景色のひとつだ。たぶんその考えはずっと変わらない。たかがDMごときにそうそうアツくなるなよ、おっさん。てなものだろうが、でもそれはやっぱりどうも違うようで、今回もこのDMが響いたうえでこの店に来ていただいた方がすでにいらして、それはそれは嬉しい。だって、それはすでにしてこちらの想いが伝わっていることに他ならないのだろうから。それは例えば音楽においてのジャケ買いのようなものなのではないか。


・・・つってもまぁこれまたなにがダサくてなにがダサく無いかなんてそれこそひとさまそれぞれであるからして、要は僕やきみがかっこいいと思うことを貫けばいいだけなのだ。きっと。ということで『玉木新雌』展示会はクリスマスの25日まで続きます。

2017年12月1日金曜日

『catejina』との出会い



そもそも『catejina(カテジナ)』という洋服ブランド、そしてきんちゃんこと、告鍬陽介くんに出会ったのはいつの頃だったろうか。僕がまだ前の編集の仕事を辞めて、離婚もして、なにか人生の路頭と陶酔に迷い込んでいる頃だったような気がする。アルコールとセックスとセンチメンタルの霧が、色濃く深く、真っ黒で真っ白な霧の最中に居たあの頃。あの頃はあの頃で愉しかった。そしてやっぱりせつなかった。

そんなとある日、トウキョウに住む、大学時代からの悪友ともいえる女友達からとある連絡があった。「熊本出身の洋服の創り手で、とても面白い子がいるから会ってあげてほしいのだ」と。できれば熊本で洋服の取り引き先も探しているから紹介してあげてほしいのだと。果たして創っているのがどんな服で、創っているのがどんなヤツか、なんてまったく聞いていない。その状態のまんま、僕らは熊本駅で僕がその頃に乗っていた古いジムニーで「はじめまして」と出会った。なんでそんなことが起きたのかと言えば。というか、なんでそんな出会ったこともない人間とそんな流れになったのかといえば、もちろん僕がその頃暇だったからに他ならない。・・・のだが、そうはいっても僕だって見知らぬひとにそんな風に普通は会いはしない。それはなんといっても彼を紹介してくれた悪友の女友達のお陰である。昔っから彼女のセンスは、なんにしても間違いが無かった。「まぁ彼女が言うんだったら」。それが一番大きかった。あのウソみたいな90年代をともに同じ大学で送り、数えきれない程の酒を呑んでは呑まれ、本当にお互いいろんなことがあった悪友だけれど、最終的に僕らはまだ奇しくも悪友同士で、まだともに生きている(そして今ではお互い子どもが居る。なんと、お互いに子どもが!)。なんにしても僕らを繋げたのが彼女だったということは、僕にとっては本当に大きいことだった。だからこそ出会うべくして出会った、と言えるだろうから。





その頃『catejina』は自ら描いたイラストを全面に押し出した総柄のシャツなんかを創っていた。すごくパンチとフックのあるテイストで、アートでグラフィックっぽいといえばそうもいえるし、いやいやゲーマーでオタクといえばそうだし、なんだかジャンクっぽいといえばそうもいえた気がする。そしてその頃からなんだかやっていることが分かるような分からぬような、分かるひとには分かるような分からぬような、でも結局のところ他にはこんな服まずもってないよなぁ、創っているヤツの頭の中はどうなってんだろう?という感じであった。友人の店を数店舗紹介しがらともに出向き、創り手のきんちゃんはほとんど旅芸人のごとく大荷物の中から洋服のサンプルを出しては見せ、出しては見せ、そこで出会ったひとびとのいろんな意見を聞いたりして頷いたりしていた。それはすぐには結果に繋がらなかったけれど、それも今となっては良い想い出だ。いま考えてみると、そんな出会いはそれから5、6年後である現在の布石に違いなかったのだ。

僕が店を出してからも、きんちゃんはトウキョウからこっちに帰省しては、いつも必ず店に顔を出してくれた。来るたんびにそのときどきでやっていた展示会を見に寄ってくれては褒めてくれた。僕にとってはじつはそれはとても大きなことだった。もちろん僕だって自分で間違いないと思ってやっているのだけど、なかなか鳴かず飛ばずで(それは今もだけど)やっぱりこれってどうなんだろう、正しいのかな、ダメなことやってるのかな、と自信が無くなることもある。といって僕は熊本に向けてなにかをやっている意識はほぼ無いので、トウキョウに住むいちクリエイターの意見はとても貴重だったのである。そんななか、どうやら今年そのきんちゃんが熊本に帰ってくると聞いた日には、本気で嬉しかった。ああ、これで自分周辺のなにかが変わる、と喜んだものだった。こういう風に周囲の温度を少しばかり上げる男というのは、実はいそうでなかなかにいないものなのだ。



それでなくともきんちゃんとは本当に食の趣味が合う。お互い長い間トウキョウで過ごして来ているし、好きな感じの店とか食の話を始めると延々と終わらない。彼はトウキョウに居た頃、なぜか燻製ユニットなるものを組んで、燻製を作っていた謎のキャリアもある。いつか夢のサワー屋をやりたいというウソだかホントだか分からぬ希望もある。真面目な話とにかく今の時代、自分の創りたい作品なんかだけではなくって、その一方で食に対する探究心がある男が居るのはとても重要で大事なことだと思う。なにかをやる時に、食の関心があるかないかはそのひとを見極めるのにとても重要なファクターだと思う。





出会った頃からすると、『catejina』というブランドも遥かに違う場所に進んで行っている気がする。僕が最初に出会った頃の『catejina』はあくまでまだその一面的な要素に過ぎなかった。実は告鍬陽介というクリエーターの奥底は、そんなものじゃなかったのである。描く、というのはあくまでラーメン好きな彼の一麺、じゃなかった、一面に過ぎない。一表現方法でしかない。自らが持つ小さな織り機を使ってチクチク織ってはそれを素材として使って洋服を仕上げる。もしくは自分の感にビンビン来るヤバい古着をゲラゲラ笑いながら堀りに掘って探し見つけてはそれをリメイクして洋服を創る。そしてまた自ら描いてはそれを素材にして服にする。こう書くとやり方はバラバラだけど、実はそれはすべて繋がっている。・・・少なくとも彼の頭のなかでは。他の人間では理解出来ない、その世界の終わりと未知なるワンダーランドの中に置いては。そしてその根底にはヒップホップの精神が流れている。まだ見ぬ世界へのアゲアゲで貪欲な憧れ、いつだかへの過去に対する絶え間ないリスペクト、表現方法としてのカット&ペースト、サンプリング文化への目配せ感、イン&アウト、天国と地獄の絶対的な見極め、そしてとどのつまりはカルチャーへの絶対的な服従と信頼と貢献。そう、「文化が街を作る」、といい放ったあの賢者への絶え間ないリスペクト。ある光。僕が自分の店でこのブランドを、この友人がやっているブランドを、ちゃんと展示会で紹介しようと思ったのは、いつからかそんなすべてを僕なりに受け止めたからだった。ちょっとわけがわからないが、わけがわからないなりにこのブランドはひとに届く、それも大切なのは「世代に関係なく」これは届く。と深く思ったからだった。そこだけはきっちりここに書いておきたい。



・・・でも伝わらないよな。うん、きっと伝わらぬ、伝え切れてないだろう。このブランドのなにかとそのすべてを。まぁとにかく伝えるのが難しいブランドなのだ、この『catejina』は。なかなか「~みたいなブランド」と言うのも難しいし、いまの洋服の世界の主流とも言えない気がする。でもそれだけにどこにも無い洋服なのは確かであって、一度出会ってしまうとなかなか抜けれぬブランドなのです。というわけで『catejina』の展示会は今週いっぱい12月3日までです。