2017年1月26日木曜日

インスタと「雰囲気」




最近はフェイスブックやらインスタグラムで日々、そしてたまにこのブログでそれぞれに文を書き散らしているので、なんだか自分でもよく分からないことになってしまっている。でもまぁなにしろ書きたいうちが書けること。なのでもあるのだろうから、それで善しとしている。そのうち飽きっぽい自分はどれかを辞めてしまうだろうし。

なんとなく思うところあって最近はインスタでもやけに長い文章を書いたりしている。どうせ携帯だからこんな長いの読まないっしょ、なんて思って書いてたらば案外と「読んでますよ」とか言われたり。でもなんというかここでも書いたのだけど、最初から自分はなんだかどうもこのインスタに馴染めなかったような気がするのだが、最近なんとなくその理由のようなものが分かってきた気がしていて、そのこととそんな長い文は無関係ではないみたいだ。

インスタというのは、端から眺めていると一点から波及する感じがやたら強い。例えば東京のスタイリストだかトレンドセッターみたいなひとが、ある店に行ってあるポストしては周囲が「おー!」となってフォロワーがガッと増えてひとびとが連なっていったり、あるいはローカルながらも目と鼻と舌の肥えた周囲から絶大なるセンスの信頼と憧れを受け持つセレブママがある店に行ってあるポストをしては他のフォロワーママたちが鼻息荒く追従したりする。そうやって徐々に、あるいは突然「バズって」いくわけである。それはそれである意味現在におけるひとつの口コミの形ではあるのだろうから、僕は遠目にみながらも別にぜんぜんいいんじゃないかと思っている。

といって、そういうインスタなんかでの周囲の「流行り」というか「バズり」を知って、まだそれをしていない店が慌てて心配して「やっぱりうちもするべきなんだろうか・・・」なんて悩む話を聞けば、「いや、それはどうだろうなぁ」と考えてしまう。そもそも自分の店は幸か不幸かまだそんなバズの気配の波もなく、もしそんな波に乗ったら乗ったでめんどくさいだろうし(いやそりゃ取り扱わせていただいている作品はどれもひとつでも多く売れてほしいですけどね)、というかそもそも僕はよく思うのだけど、きっと周囲がインスタのフォロワー数なんかから「いやー、バズってんね、あの店」とか勝手に思っていたりするが、たぶん実は思っているほど忙しくて忙しくてヤバいくらいに仕方ない、というパターンはそうそう多くはない気がする。前も書いた気がするけど、SNSのカウンター数と現実のひとの動きとは必ずしも一致しないからだ。きっとそれはお店をやっている人間ならば大方は分かってくれるはず。だってたまにうちの店なんかでも「いやだってこの商品だったらばもうお客さん殺到してると思って」みたいに言ってくれる方がいたりするが、そんなことは悲しむべきことかほとんどない。まぁうちの店はあいもかわらず、ごめんねマイペースなんでその辺は気にしてないんですが(いやいやちゃんとどっかで焦ってますけどね)。

でもひとつだけインスタでどうしても感じてしまうのは、どんな店でも本当に「雰囲気」が多いよなぁということ。特にいまはデジカメ様様があるので、誰でもすべからく「いい雰囲気」で写真が撮れてしまう。・・・つって自分も最近メルカリでデジカメ買ったけどさ。だからまぁこれは自分に対する自戒でもあるのですが・・・そんでもってインスタという箱でみると、これまたなんだかどれもこれもこぞって「美味しそうに」「かわいく」「おしゃれ」に見えてしまうのだな。そもそもそれっていいことなのだろうか? これが巷でウワサの千人万人億人インスタシャレオツ説。・・・うんまぁ間違いなくいいことではあるんだろうけどさ。

でも売る側からすると、そうだからこそ「雰囲気買い」みたいな流れが出て来るのではないかなと思ってしまうのも事実であって。インスタでの「雰囲気」のみを見て感じて店に来て、あるいはその「雰囲気」でブランドや作品や商品の名前をインプットし消費してしまって、結局は売り手や創り手の本当の想いはここにおいてスルーされていく。もちろん売り手や創り手は、基本は買い手やお客様を選べない。そんなことは当たり前だし、売り手や創り手の想いを分かっていてもいなくても、いただくお金はそもそも一緒である。そういう意味ではたとえ「雰囲気買い」をされたお客様であっても、大切なお客様であることに変わりはない。でもよく考えてみると、特に売る側からすれば、本当にこちら側の「想い」が届いて買っていただいたのかどうか、というのはかなり大きな問題であるはずだ。なぜかといえば、それは次に繋がるかどうかという問題を含んでいるから。つまりはその店のリピーター、常連様になってくれるかどうか。本当の意味でその店のお客様になるかどうかという問題には、やはりそれぞれのそんな「想い」が関係してくるような気がするのだけど、どうなんだろうか。

そしてもう一点確かなのは、その「雰囲気」だけでは僕らのような、すこしの口笛で吹き飛んでしまうような、しがない小売店は絶対に資本に勝てないということ。現在では資本がある側も当たり前に同じように「雰囲気」でせまってくる。そして「雰囲気」はたしかに「雰囲気」でしかなくって「雰囲気」以上のものは産み出さないから、数や大きさが強い方が勝つに決まってる。結局のところ、同じやり方や在り方や方法論でこちらが勝てるわけが無いと思うのだ。だから僕らは僕らなりの武器をそれぞれこぞって探さなければならない。たぶんこれはどの小売店や個人飲食店でも抱える大きな命題のような気がするのだけど、これまたどうなんだろうか。・・・つって僕もそんな武器なんて持たないですけどね。インスタぐらいであいかわらず考え過ぎなのかもしれませんけどね。でもとにかく少なくとも自分の店に関しては変に無闇に「雰囲気」のみで知られるくらいならば、ひとりでも多くのコアで偏屈で奇特かもしれないあなたのようなひとにこそ知ってもらいたいな、と常々思っているのですが。


2017年1月20日金曜日

ある日の日記



昨日は閉店1時間前の19時くらいに、あるカップルのお客様が突然店に訪れた。初めてのお客様だ。「あんまりこれくらいの時間帯に初めてのお客様は来ないのだけどな・・・」なんて思いつつ、様子を見ていたらば、なんというかどうも見れば見るほど、普段のうちのお客様のラインとまったく違うというか、二人とも年齢が若めだったからかもしれないけども、「もしかしたら店を間違って入っちゃったのかしらん」と思える様な二人に見えて来た。なんせ男の子の方はキャップを後ろに被っちゃってるし、女の子の方もちょっとエクステオーバー気味なギャルルルル的かわいさが垣間見えて、なかなかうちの店には来ないタイプの方たちなのであった。まぁなんつっても典型的差別的なダメ店員ですからね、僕は。

そうはいっても、現在店では来ていただいたお客様にチョコやジャムの試食をしていただいていて、こういうラインが一番難しい。うちの店は大抵SNSなんかで現在の状況を知っていらっしゃる方が来られることが多いので、あんまり飛び込みの方は多くないのだ。しかもここでヘタに試食をしていただき迷惑がられてもなんともアホな店員だしなぁ。「うーん、これはどうしたものか・・・」とPCをいじくるフリをしながら考えていると、勝手に失礼ながら驚くことに「ひとまず、これ。ください」と言って、男の子の方が金澤宏紀くんのカップをレジに持って来た。そして「ええと、他も見ますから、ちょっと待ってくださいね」なんてセリフを落としつつ、二人して他の商品もあれこれ見てくれている。結局のところ聞いてみれば、どうも男の子の方の働く会社がこの近くにあって、よく店の前を通っており、前から気になっていたのだそうだ。そうして今日、思い切って入ってみたのだと。「あいたたた・・・。すまぬすまぬ」と椎名誠的になって、あわててコーヒーを淹れて、チョコとジャムの試食をゆっくりしていただいた。結果的にすごく気に入っていただき、チョコやジャムだけでなく、女の子には木ユウコさんのカップまで買っていただき、典型的良くない差別的なこの店主は猛省したのであった。まぁかのように接客とは難しいが、興味深くかつ面白愉しいのですね。




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なんとなく嬉しくなった僕は、その足でひとりで『Peg』に行った。知ってる人ももはや多いと思うが、『Peg』といえば、自分のなかで現在この地でいちばんヒップでハイブロウで段違いにぶっ飛んだビストロであって、ここの何が凄いって食材やワインまですべてもすべてオーガニックで厳選しながら、まだ若き希望に満ち満ちたひとりの青年がたったひとりで店を切り盛りし、芯に貫かれたフランス仕込みの料理をきっぱりと出すところだ。しかもその若者はどうやらスケーターと来てる。「ストリートとフレンチとオーガニック」という組み合わせだけでもう持ってかれなければ、たぶん僕はそのひとのセンスを信用はしないだろう。といって僕もまだこれまでに3回くらいしか行っていないし、その青年であるひろみくんとはまだそんなに知り合いでもないのだけど、なんで勝手にひろみくんとここで書いちゃうかといえば、なんせその名は偶然僕の奥さんの名前でもあるからで、なんだか勝手に近いのだ。そしてこの若き創り手はオーガニカルな野菜の創り手の話になるともうアツくなってアツくなって止まらないところも完全に好感が持てて持てて仕方ない。僕も以前からそんなひとたちの仕事ぶりを取材しているので、あまりにいろんな話に頷けてしまうわけで。



そして更にデカいのが店に流れている音楽で、ある時はディープ&ディープなルーツレゲエであったり、昨日は昨日でつい先日僕も自分の店でかけて実はこころで泣いてたダニー・ハサウェイのアルバム(あのライヴアルバムな。リトル・ゲットー・ボーイな!)が偶然かかっていたりと、まぁなんだかここまで来るとそんなに話さなくても絶対通じる間違いない感があるというか。そういえばあんまり嬉しくなって最近ハマってるバンドの動画なんかも勝手に見せちゃったり(なんだかこの心地よいヴァイヴって勝手に『Peg』っぽい)。もうすぐ始まる企画展のDMを渡す目的もあったのだけど、でもひとりでふらりと行って、分厚くて限りなくナチュ甘ウマい「ごぼうのバルサミコ煮」やら生命の詰まった「野菜と豆のスープ」やらを食べながら、これまたガチでナチュナチュな果実味溢れんばかりの数々の自然派グラスワインを飲み干しては4000円いかないくらいなんだから、こりゃ誰だって通うだろうと。でも通っちゃったらばますますひろみくんひとりで大変なんだが、でもやっぱり通うだろうなぁと。昨日は黙ってひとりで行っちゃったから、“飲み友久朋”ことカメラマンのえとうくんにはラインで怒られつつ。





それにしても現在、店で置かせていただいてる「ジャムのようななにものか」を産み出す、阿蘇の『オルモコッピア』の二人もそうだけども、ここ熊本でも若い人たちのお店でオーガニックをベーシックに据えた店も増えて来た。ここで勝手に自分で判断してしまうと、きっと彼らは言って見れば「ネクストオーガニック世代」みたいな感じで、あくまで堅苦しくない考えで当たり前のようにナチュラル思考をナチュラルに展開し貫いている。素材はできるかぎり自分の限界までこだわるが、だからといってそれをさも「こうあらねばならぬ」みたく押し付けたりしないし、なんせ一番大切なのは心地よく店で過ごしていただけること、つまりは心地よい店とお客様との関係性である、と知っている気がする。そこには店自体の雰囲気ももちろん関係するし、何より料理を産み出す創り手側がその仕事に誇りと愉しみをしっかり持っていないと本当の意味で心地よくなくね? みたいなことをしっかり本能的に分かっている気がするんである。だってお店側が「絶対こうじゃなきゃおかしいですって。絶対こうあるべきなんですってば。それ以外の考えはおかしいんですってば」みたいに頑過ぎたり、「イヤだなぁ、やりたくないなぁ、愉しくないなぁ」とか思っていたらば、どんなに材料にこだわっていても本当に心地よい場になれるわけがない。料理だって本当の意味で美味しくなるわけがない。

で、いつも思うことなのだけど、これはなにも店だけでなくってどこぞの会社や企業にも通じる話であって、やっぱり心地よい関係性を大切にする会社や企業は、心地よい仕事を産み出しているように思う。そこは実をいうと家庭も同じかもしれない。なんかほら、例えば他人の夫婦や家族と短い時間でも一緒に居ると心地よいかどうかすぐ分かってしまったりしません? そこの家庭の夫婦の雰囲気や子どもと親の関係性を直に感じれば、なにかが分かってしまったり。そういう目に見えないヴァイヴのようなものこそは、ちゃあんと伝わる人には伝わっているし、ばれちゃうひとにはばれちゃうんである。して、すごいのはそういうヴァイヴというのは、感じ取れている周囲のひとびとには少しずつだけど確実に伝わって行くので、心地よいヴァイヴを持ったサークルがそこに描かれることになるということ。だんだんと広がっていくのですね。もしかしたら昔の古き良き商店街って、そういうものだったのかもしれないなぁとも思ったり。いずれにしても店って、それがどんな店であっても実はそんなヴァイヴの伝え手というか担い所になれるんじゃないかな、と思っている。うちの店もそんなヴァイヴを少しでも発信できていればいいのだけど。どうなんだろうか。

2017年1月19日木曜日

仕込みの人生への祝福



今日、なんとなくお客様から「どうやったらば文章を書くことってできるのですかね」のような質問を受け、じつは僕はその答えを持たないのだけど、だからこそたぶんこうやってまたでたらめなる文章を重ねようとしているのだけど、でもそういえば最近ちょうど考えていたことがひとつ在ったな、と思い、そのお話をした。そのことはきっとうちの店が取り扱う、すべての創り手の方たちに通じることのような気が(勝手に)しているので、それを2017年最初の文章にしてしまおうと思う。

例えばそれがまっとうな飲食店であれば、それがどんな種類の飲食店であっても、彼・彼女たちはいつであっても「仕込みのこと」をあたまのどこかで考えているはずだ。たまの休みであっても、定休日であっても、あるいはたとえ正月であったって、あたまのどこか端っこの方に料理の仕込みのことがきっと在る。客や他人は当たり前にテーブルに並んだ華やかなる料理自体にスポットをあてがちだけども、でも料理とは7、8割が仕込みだ。つまり、料理人とは仕込みの人生であるといっていいだろう。

それと同じように言わせていただけるなら、自分にとって文章も同じ様なものだと思う。常にどこかであたまのなかで文章を書いている(仕込んでいる)。いつもどこかで文章を綴り、そのことを考えている。というか、考えてしまっている。自分のあたまのなかを割って他人に見せ比べられたら、たぶんちょっとおかしいんじゃないかなと思う。でもそれは仕方の無い、ある種、業のような、星周りのようなものだ。

そしてそれはきっと器を産み出すひとたちとて同じであって、きっと彼・彼女らはいつであっても自分の作品である器のこと、あるいはそれを創ることから逃れられないはずだ。休んでいる時であっても、必ずやあたまのどこかに作品のことがあって、考えていないようであっても考えている。つまりそれはもうすでに、そこで作品の仕込みが行われているといっていいのではないかと思う。つまりはまぁ彼・彼女らも仕込みの人生であると言ってもいいだろう。そして彼・彼女らも美しく煌びやかな作品ばかりが表だって取り上げられるが、普段は泥まみれになりながら作品を産み出している。あたまのなかの仕込みの段階から考えると、凄まじい時間が積み重なっているかもしれない。でもやっぱりあんまりそんな影の部分は語られることはない。そしてそれはなにも器だけじゃなくって、日々なんらかの作品を産み出そうとしているあくまで真摯なる創り手の人間全般にいえることだと思うのだ。

でも僕はここでただただ創り手が偉い、と言いたいわけじゃない。というか、そんな彼・彼女たちはなぜかわからないけれど、そういう道を選ぶしかなかったのだ。きっと。気がついてみたら、そんな仕込みの人生を選んでしまっていたのだ。たぶん。好むと好まないに関わらず。あるひとは銀行員になり、あるひとは教師になり、あるひとは料理をつくり、あるひとは器をつくる。そしてあるひとは文章を綴る。別にそこに偉い、偉くないとかは存在しない(いや、偉いとか考えている人間もなかにはいるのは知ってるけど、大抵そんなやつに限って大したことないのがこの世の常だ)。

そして僕はこの店において、そんな彼・彼女たちの希有で奇妙なる仕込みの人生を断じて祝福したいと考えている。いや、というか、そこに理解あるお客様という仲間たちと一緒に祝福したいと思っているのである。それがこのvertigoという店のコンセプトであり、願いであり、使命である。たぶんそれはいつになっても変わることはないだろう。何の因果かわからぬけども、彼・彼女たちはそんな仕込みの人生を選んでしまった。そしてこの瞬間たったいまでも彼・彼女たちは作品と呼ばれるべきなにものかを仕込んでいるに違いないのだ。だから、ほら。やっぱりここで祝福しようじゃないか。そう思うのです。

2016年12月4日日曜日

『玉木新雌2016秋冬展示会』

ということで、いよいよ来週から始まる『玉木新雌2016秋冬展示会』。来週木曜の12月8日のみvertigo店内でプレ展示、それ以降の12月10日(土)から25日(日)までは三年坂TSUTAYAの地下にて開催させていただきます。

以下、告知用のDM撮影をしていただいたもの。カメラマンはいつもの衛藤久朋くん、モデルはお茶の先生もなさっている木本智子さんです。すごくいい仕上がりになりました。















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木本さんは普段着物を着られる機会も多いからなのか、撮影中、衛藤くんに「できたら猫背でお願いします」と言われていたのがすごくおかしかった。本当にお世話になりました。ちなみに「・・・・」で区切ったうえのものがフィルム撮影。下がデジタル撮影。やっぱりなんかフィルムの方があたたかみがあるというか、柔らかいですね。これはまんま音楽と一緒だなぁと思いました。アナログレコードとCDの違い。実際DMではフィルムの方を使わせていただきました。

ということで、皆様、ぜひ展示会にお越し下さいませ。





2016年12月3日土曜日

ホームペイジ





最近、ほんとうに今さらながら店のホームペイジ(http://www.mu-vertigo.com)をいじいじといじくっている。前から「力が入ってなさ過ぎでしょ!」と不評のHPだったのだけど、まぁ新しい店舗に移って雑貨店もマッサージと別になって分かりやすくなったし(マッサージは別でぜんぜんやってますんで、気になる方は言ってくださいね)、そろそろもうちょっと広い範囲で店の展開を考えないと、と思ったのですね。つってもwixでいかにもトウシロでハズいシロモノですけども。

自分はどうもウェブに関して最初っからあきらめ気味なザンネン40代というか、こーんな広い広い果てしなく広大な宇宙の真ん中で、いったいおれは何を叫べばいいのよ?と思ってるフシがありありで、なかなか腰が重かったところはある。でも考えてみると、何を叫べば、なんつっても、そもそもそんな叫ぶ場所が存在すること自体がこのウェブ時代の素晴らしいところであるはずで、それが無ければいつかの八百屋さんみたく店頭で「いらっしゃい!いらっしゃい!」と叫ばなければならない(もちろんそれも素晴らしい方法だけど)。

例えばうちの両親は(まぁ父しか残ってないけど)もうパソコンをしないまま死んでいくのを善しとしているひとたちで、だからして例えばあのひとたちが親戚を交えた様な大きめな家族の食事の計画を立てようものならちょっとした事業だ。僕らであれば店の検討を付けてネットで店の情報見て個室はあるのかとか金額なんかをチェックする。が、あのひとたちはまずはもういきなり電話したりはたまた直接店に行ったりしてチェックしたり確認するから、しかももしそれが何軒も重なれば、そりゃもう大変な労力になる。一大事なのだ。結局は直接行ったりすることが実はプラスになったりもするのだろうけども、それでもやはり今の時代にはちょっとあの苦労はあり得ないというか。



そう。分かってんじゃん。情報の開示ですよ、情報の開示。オープンテクスツですよ、オープンテクスツ。じゃあお前、はよやらんかい!となるのだけど、僕はこれでもいちおう編集、ライターをしていて、そのやり方というかあり方みたいなものをそのままこの雑貨店にトレースできないか、と思いつつこの店をやっており。そういう意味では僕としてはこの雑貨店の仕事だって編集、ライターの仕事の延長であり、そのなかのひとつと思っているのだけれども。だからこそいつも思うのは、編集やライターの仕事というのはあくまで媒介である、ということで。主役は別にある、いる、ということで。

例えば何の変哲も特徴もまったく無いひとや店や事象でも、自分なりに取材して自分なりに捉えて、そして自分なりの価値のようなものをそこに提示しなければならない。いや、提示したい。「これ、超普通過ぎてどこをどう切っても紹介になんないよ」というのならば、穴が開くまで延々と眺めては、伸びる部分を探し引っ張り出して書きつける。すんごいひとに会ったのならば、なにがどうすんごいのかを自分で消化して、それを自分なりの角度でもって伝えたい。いや、伝えなきゃいかんだろう、と。でもほんと単純な話、ひとつの事象があってそれを100人が見たらば100の見方があってしかるべきはずなんですよね。みんな同じ見方してたら、僕、わたし、あなた、君がそれぞれ書く意味がまったくないと思うし。




こういう話でいつも想い出すのが、伊丹十三さんのエッセイで、カメラマンの浅井慎平さんについて書かれた文章で。ある日、浅井さんがゴルフの取材に現場にカメラマンとして行った。グリーンにはその他大勢のカメラマンもいて、彼らはみな一様にゴルファーがスイングする瞬間ばかりをカメラに収めようとやっきになっていた。まぁたしかにそれが普通のカメラマンですわな。そんなひとたちを横目に、浅井さんはゴルファーが脇の方でキャディと真剣に話しているところをパシッと撮って押さえたそうだ。そして「これだってゴルフでしょ」とあっさりいったという。これくらい物の捉え方について分かりやすく表した話は無いと思うのだけど。そう思いませんか?・・・あらら、そうでもないか。

ええと、でなんの話だっけか。ああそうだ。ただまぁ媒介として自分を通して他人について語るのは慣れているのだけど、なんせ自分について語るのに慣れてないんですよね。できれば語りたくないし、アピールもしたくない。そういうの、もうほんとめんどくさいと思う方で。でも幸い自分の周囲には温かなひとたちが何人かいて、「いや、そうだからこそ、もっとあなた自身を打ち出した方がいいんだってば。そうしないとダメな2016年なんだってば」らしきことを助言されたりもする。確かにすべてがひっくり返ったようにも思えるこの2016年、そうも言ってられないよなぁ、それは自分でも十二分に分かってるんだけど・・・ん、待てよ。そうかそうか。そうなのかも。なんでこれまでこの視点が持てなかったんだろか。

結局は自分が『vertigo』というこの店を、編集すればいいんだよな。媒介としてこの店についてみんなに伝えればいいんじゃないの。この店の店主はいったいなにがしたいのか。どこにバイアスかけてあげたらば、周りに多くのことが伝わるのか。その辺すべてを引き受けて、提示してあげればいいんだ。まぁたかがホームページ作るのに、なにゆえこんなしちめんどくさい思考をしなければならんのか自分でもよくわかんないんだけど、もうしょうがないですね。そういう人間なのだろうから。なんというか編集とかライターってそれくらい自分とかひととの距離を考えてるというか。そうしないと少なくとも自分は文章書けませんというか。もちろんひとそれぞれでしょうけど。ということで、まだまだすべてうまくいってはいませんが、まぁちょっとずつ見守ってやってください、という感じでしょうか。あ、来年は少しずつウェブでの販売も行おうと思っております。はい。たぶん。

2016年11月27日日曜日

堂々巡り



村上春樹の小説に『回転木馬のデッドヒート』というのがあって、そのなかに「プールサイド」という短編がある。僕は昔っからその話がなんだか好きというか気になっていて、ことあるごとに読み返すのだけど、そして最近もまた読もうと思ったけどもどうしても家で見つからない。震災があって引っ越して、もうなにがどこにあるのかさっぱり分からなくなってしまった。そうやってまたブックオフなんかで買ったりするのだろうなー。まったくもう。やれやれ、である。

といって、だいたい筋はもう覚えていて。・・・ある男、たしか35歳になったばかりの男が、その日を自分の「人生の折り返し地点」に決めてしまう。30でも40でもひとによって折り返し地点はさまざまだろうけど、その男にとっては35になったその日が折り返し地点だった。そこで男は鏡の前に素っ裸で立ち、自分のからだの隅々をチェックする。営業の付き合い酒なんかで弛んでしまった腹、ケアの行き届かない歯、あんまり変化が見られないように思える睾丸、だとかを。そして男はその日からすべてを改める。プールに定期的に通ってカラダをしぼり、歯医者に行って虫歯を治療し毎日デンタルケアし、食事を自ら制限する。もともと凝り性なこともあって、ほどないうちに彼はかなりの体力的な若さを取り戻す。そして彼は若い愛人をつくる。そうなってしまっても、別に妻とも平和に幸せに暮らしているが、ある日、彼は自分の目から涙がこぼれ落ちてしまっていることに気づく。それは若い愛人をセックスで完全に満足させてあげることができる自分に気づいた瞬間だった・・・。みたいな話だったと思う、たしか。



さぁ果たしていったいこの話のどこの、なにが、自分を撃ったのか。僕もあんまりわからなかったんだけど、最近ちょっとだけ分かってきた気がした。といって自分には若い愛人もたしかいないはずだし(と周りをきょろきょろみる)、性的な満足なんぞもよく分からないのだけど(とさらに周りをきょろきょろみる)・・・いやいや、うーんと、そういうことではなくって、例えば自分の周りにはなぜか30歳くらいのひとたちが多くって、最近結構いろいろと話すことが多い。例えばこれからのこととか、これまでのこととか。いろんなひとがいてそれぞれだけど、やっぱり30くらいって結構漠然としてて、ちょっとこれからどうなるんだろか・・・と感じているひとも当たり前に多くって。それは僕もそうだったからよく分かるわけで。自分なんて20後半で周りに遊んでくれるひとが居なくなって東京に行った人間だから、スタートだってあまりに遅くって、もうほんと、まったく参考になるはずないんだけど、でもこういうのは結局自分の経験しか語ることはできないし、それしか説得力がありえないので、なんとなく自分のことを話すことになる。



いろいろありながらも僕が店を出して三年目という事実を話すと、ひとによっては心底感心してくれたりもする。店を出した、続いている、という事実は少なからずいちおうはひとによっては輝きに見えたりもするようだ。ひとの見え方って実に不思議なものだ。まったく、そんなことないのだけど。ふらふら、ゆらゆら、不安でいっぱいなのだけど。でも僕が30のときに僕と同じ立場の40の人間と話したら、そりゃあ同じ想いになったと思う。そして、そんな時だ。あの「プールサイド」という短編を想い出す時は。少しだけあの話が分かったような気がする時は。「得てしまったことで失うもの」。そんな言葉がぐるぐる頭を駆け巡るというか。

自分は40になって何かを手に入れたのかもしれないけれど、もうあの頃の不安で不安で仕方なかった、何にも無かった頃には戻れない。あの時のヒリヒリした感じとか心情とか、誰といつ飲んでも、どんだけ飲んでも結局は自分のふがいなさに戻って来るあの堂々巡り。それこそ『回転木馬のデッドヒート』。何回飲んでも最後は大抵同じ話になる。最後の最後は「・・・・・」で終わり。だいたい同じ不安を抱えているヤツとしか飲まないので(最高に幸せなやつとなんて飲むわけが無いし)、そりゃ飲んでも飲んでも同じわけだ。そして不安で仕方なかったあの時なんて、たったいま想い出したくもないのだけど、でもそれ以上に「もう戻れないんだよな」という想いもたしかに強くある。「そこまで行き着く過程こそが大切なんだよ」とかどこかの誰かはよく言うが、そんなの過ぎ去ってしまったヤツだからこそ言えるわけで。少なくともそんな言葉は自分には吐けないのである。・・・ん、ちょっと待て。ということは、まだ俺はあの堂々巡りのなかにいるということなのだろうか。


2016年11月15日火曜日

三周年




気がつけばまた一年経ち、どうやらお店が三周年を迎えていたようだ。前回もそうだったけど、ほんと気づくのが遅いし、その辺どうでもいいのかなまだ今は、と思ってる感が出てしまっている。いや、というか、たぶんこの2016年が凄まじくいろんなことがありすぎたせいかもしれない。でもだいたい10月末がオープン日みたいなので、今回の移転オープンはちょうど三周年と重なってたんですよね。んもう、誰か言えつーの。俺、気づけっつーの。

無事三周年のタイミングを迎えることになった移転先のこの店舗。満月ビル。結構場所も分かり難いし、街の中心部からちょいと離れているし、古いビルの3Fだし、全部自分でただ白く塗ったハコだし、隣の隣はなぜかボクシングジムだし、なかなか斯様のハングリーな状況なんだけど、結構通じるひとには通じているようで嬉しい。どちらかというと前回の店よりもコアな感じというか、分かってくれるひとには分かるよね的な趣きではあるので、そりゃやっぱり伝わると嬉しいんですよね。しかもなんか創り手のひととかうちのハードコアなお客様にひとまずびんびん来てる感じがますます嬉しくて。

こないだもそんなハードコアなお客様のひとりとずっといろんな話をしていたのだけど。

「こないだテレビで観たんだけど。やっぱり広告もメディアミックスが大事みたいね」

「ふーん。その言葉ちょい昔からよく聞くっちゃ聞くね」

「やっぱり例えばそれぞれの世代で見るメディアが違うから、当たり前にその辺も考慮して広告のお金の配分も決めなきゃいけないのよねぇ」

ふーん。そうなのか。まぁそうなのだろうなぁ。僕もこれまで店をやっていていちばん歯がゆいというか考えどころなのが、やっぱりちゃんと届いているひとに届いているか、ということであって。このSNS中心なご時世、うちもフェイスブックやらインスタやらを主に宣伝しているけど、どうもあれもよく分からないわけで。閲覧数なんかで数字は出るので「おお、届いとる届いとる」なんて一方で安心しちゃうけど、でも言ってみればあんなのただのカウント数でもあって、実際にお店の門をくぐるかどうかなんてもちろん分かりゃしないのだ。でも見えないものに力を使うよりか(例えばビラ配りとか)一応成果のようなものが見えやすいからやる側も安心は安心、というか。

ただ逆にSNSに囚われすぎると極端にムラ化してしまうというか、却って見方を狭めてしまうようで恐い面もあるな、と最近思った。例えばうちの奥さんなんかは基本、一切SNSみたいなものはしないひとなので、じゃあそんなひとにどう情報を届ければいいかというと、そこで止まってしまうわけだ。じゃあやっぱりあれでしょ、なんつってもほら口コミでしょ。となって、確かにそれくらい力強いものはないのは分かるのだけど、やっぱりそれにはそれ相応の時間の熟成みたいなのが必要になってくるだろうし、それより何より店を実際にやっていて驚くのは、自分の思考を遥かに越えた世のひとびとの嗜好世界の壮大さというか。

例えば自分が知っている店で熊本でもう十何年もやっていて、よく地方のメディアにも出てて、自分からしたらそらぁ大メジャーで知らないひといないっしょと思う店であっても、結構知られていないことが多いのだ、実際は。そのことにいつもいつも驚かされる。結局そのメジャー感はあくまで「自分のメジャー感」でしかなくって、世間はそんなこととは無関係にそこに在る。自分が考えているより遥かに世間は広いし巨大で、いろんなひとが居る。こう書くとそんなの当たり前じゃんと思うかもしれないけど、どうもそれを忘れがちなのですね、少なくとも僕は。こんな風にスクリーンとにらめっこしながら仕事をしている感じを装っているとどうもそこを忘れがちになる。

どんなひとでもいろんな繫がりのなかで生きているので、自然と知らぬうちにトライブ(集合体)のようなものができがちで、SNSがそれをまた色濃く反映し、そのなかで情報が生き渡れば知れ渡ったなんて思ってしまうけれど、それは大きな間違いであって。たかが熊本であっても実はそこに広がるのは広大な、まだ見ぬひとびとの大きな大きな連なりであって。そういう意味で今回の大統領選もなにか勝手ながらひとごとではなかった。本当に届いているひとに届いてるのかなぁ、届いた上での結果なのかなぁ、都会と地方、知識人とブルーカラー、SNSを駆使した情報戦、桁はまったく違えど、案外僕らがやっていることとそう遠くないのではないだろうかと思ってしまった。

「お前の視野と生活範囲はとにかく狭いんだから」。いつもそう自分に言い聞かせるようにしている。自分たちのトライブとは違う島が世にはたっくさんあって、そのひとたちだってもしかしたらうちのような店を求めているひともいるかもしれないのだと。そのひとたちに届けるにはどうすればいいのだろうかと。そんなことをぐるぐる考えながら、のろのろと三年目を通過する。